コラムVol.71 マネーライターの取材裏話――マネー誌に書かなかったこと&書けなかったこと 年金75歳受給開始は“最後の切り札”

2020年7月27日
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森田 聡子 (もりた としこ)
早稲田大学政治経済学部卒業後、地方紙勤務を経て日経ホーム出版社、日経BPにて『日経おとなのOFF』編集長、『日経マネー』副編集長、『日経ビジネス』副編集長などを歴任。2019年に独立後は書籍や雑誌、ウェブサイトなどで、幅広い年代層のマネー初心者に対し、難しい投資・税金・保険などの話をやさしく、分かりやすく「書く」(=ライティング)、「見せる」(=編集)ことをモットーに活動している。著書に『節税のツボとドツボ』(日経BP)、編集協力に『マンガ 定年後入門』(日本経済新聞出版社)、『教科書には書いてない 相続のイロハ』(日経BP)。

年金75歳受給開始は“最後の切り札”

200兆円を超える“空前絶後”の補正予算など、新型コロナウイルス感染拡大への対応に追われた今年の通常国会で、あまり話題になることもなくひっそりと可決されていたのが「年金制度改革関連法案」です。コロナや前東京高等検察庁検事長の問題がなかったら、恐らくはもっと大きくメディアで報道されていたことでしょう。
しかし、記事の扱いが地味だからといってスルーするわけにはいきません。年金制度改革もコロナに負けず劣らず、私たちの生活に直結する“重要案件”だからです。
そこで今回は、この年金制度改革についてお話ししたいと思います。

今回の改革の目玉は、公的年金の受給開始年齢が最長で75歳まで引き上げられたことでしょう(実施時期は2022年4月)。これについてはネットニュースなどの見出しを見て、「年金って75歳になるまでもらえないの?」と慌てた方が少なくないようですが、そんなことはないのでご安心ください。
そもそも公的年金の受給開始年齢は65歳を基本に、60歳まで前倒ししたり(年金用語では「繰り上げ受給」)、70歳まで引き延ばしたり(こちらは「繰り下げ受給」)することができます。繰り上げ受給や繰り下げ受給をしても受け取る年金額が同じでは不公平になるため、繰り上げる場合は1カ月につき0.5%カット、繰り下げる場合は1カ月につき0.7%上乗せされます。
今回の改革では、この繰り下げ受給の上限年齢が「70歳」から「75歳」に引き上げられました。要は、公的年金は60歳から75歳の間で、自分の好きな時期を選んでもらい始めてくださいね、ということです。ちなみに75歳まで受給を延ばした時の年金額は、65歳から受け取る場合の84%(0.7%×120カ月)増になります。

ご存じの通り、少子高齢化の進行で年金財政は逼迫しています。公的年金の世界では、現役世代が得ている収入に対し、リタイア世帯がどれくらいの年金額をもらえるのかを示す「所得代替率」という指標がよく使われますが、この所得代替率が「50%」、言い換えれば「現役世代の平均収入の半額」をキープするのが非常に難しい状況と言われているのです。
そうした中でリタイア後の生活を安定させるには、60歳の定年後も働いて収入を得つつ、年金の受給を繰り下げて将来の年金額を増やすことが有力な手段になります。
そこで現政権は「生涯現役社会」を重点政策に掲げ、企業に70歳までの雇用の確保を義務付けると共に、国の年金や確定拠出年金(DC)、個人型確定拠出年金(iDeCo)の受給開始年齢の上限のさらなる引き上げを図ったというわけです。

今の預貯金の金利水準では10年間で84%も殖やすことは困難ですから、75歳受給開始は現実問題、かなりお得と言えるでしょう。
しかし、筆者は以下の理由から、諸手を挙げては賛成しかねます。

重要なのは、75歳受給開始が万人にとって有利に働くとは限らないということです。人生100年時代といっても、寿命は人それぞれ。いくら年金額が84%増えたとしても、受給開始前または開始後間もなく亡くなるようなことがあれば、65歳から普通に年金を受け取っていた方が生涯トータルの受給額は多くなるはずです。
こうした“損益分岐点”を計算すると、「75歳受給開始の場合は87歳以上生きないと損」ということになります。

皆さんはこの「87歳」という数字をどう考えますか?
厚生労働省「平成30年 簡易生命表」によると日本人の平均寿命は男性81.25歳、女性87.32歳です。平均寿命の計算には若くして亡くなった方も含まれているので、平均寿命の年齢では、同年の人の約6割が存命だと言われています。男性を例に取れば、81.25歳時点で5人に3人が生きているわけです。だとしても、平均寿命が87歳を上回る女性はともかく、男性の場合、100歳以上がごろごろいる長寿家系だとか、人並み外れて健康に自信があるとか、よほどポジティブな根拠がない限り、75歳受給開始を選びづらいのではないでしょうか。

さらに、年金収入が84%増加しても、手取りは5割も増えない可能性があります。収入が多くなった分、税金(所得税・住民税)や社会保険料(後期高齢者医療保険料・介護保険料)の負担が重くなるからです。皆さんが年金受給者になる頃、これらの税率や料率は間違いなく今より上昇しているはずです。

70歳就業確保法(改正高年齢者雇用安定法、2021年4月施行)が議論されていた頃、友人や知人に将来、何歳まで働きたいと考えているかをリサーチしたことがあります。30代から50代にかけての男女30人ほどから回答を得た中で、70歳を超えて働く自分をイメージしていたのは、たったの1人でした。自営業で後継者の当てがないというその男性は、「自分を支えてくれるお客さんの期待に応えたいから、体が動く限りは仕事を続ける」と決めていたようです。
海外のロングステイや趣味三昧の暮らしなど、リタイア後には「働いている今はできないことをしたい」と考える人が多いようです。それだけに、前出の男性のような強いモチベーションがないと、高齢になって働き続けることは難しいのかもしれません。60歳を過ぎると有病率も高くなりますから、働きたくても働けなくなってしまう可能性も頭に入れておきたいところです。

こうしてみると「70歳まで勤務+75歳年金受給開始」はやはり、ライフプランの“最後の切り札”として取っておくべきなのではないかと思います。
定年まで時間を残す皆さんなら、DCやiDeCo、さらには容認された副業など様々な手段を駆使して将来の老後資金を積み増すことが可能です。そして、ある程度の老後資金が確保できれば、リタイア後の生活の安定感と自由度はぐんと高まります。
75歳受給開始はその際のお守りのようなもので、仮に計画がうまくいかなかったとしても、「切り札があるから長生きしても大丈夫」と切り替えることができれば、老後への不安はずいぶん和らぐのではないでしょうか。

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